昭和42年8月7日 朝の御理解


 所謂、チャンスに巡り合いましても、そのチャンスをキャッチしない。そのチャンスを頂ききらなかったら値打ちはございません。ですからそのおかげを頂けるチャンスというものを頂けるために、お互いが信心の稽古をしていると言うてもいいくらいです。おかげのチャンス、それを自分の心から外してしもうておかげを受けられないではつまりません。と言うのは、どうしても生き生きとした心、喜びの心が必要なんです。教祖の神様は、思いかえと言う事を、仰っておられます。どの様なことがあっても、それを良い方へ良い方へと、思い変えていく、思いかえをしていく。
 昨日、少年少女会の信心実習会がございました。自家用車が六、七台、皆さん分乗いたしまして福岡のながかれ?海水浴に参りましたわけでございまして。夕べ帰りが大変遅うございました。夕方から私、もう帰ってくるだろう、帰ってくるまでと思いましてから入り口の所のつつじがズート植えてございます。つつじの中に、折角あの芝生が植えてございます中に草が一杯生えておりますから、つつじの中の草やら芝の中の草を取らせてもらおうと思って、シャツ一枚で草を取りよりました。けども私は思うのですけれども、こんな夕方にお百姓さん達でも草取りなさったり、いろいろ仕事をしなさるとはかいくと思うんですね。涼しいですから。日が照りませんですから。そんなふうに思うて取りよりましたら、それはそうではないですね。シャツごしにピシピシと蚊が出てくる。日は強いことはありませんですね。
 そういう中に…そんなことを考えながら取らせて頂よりました。そしたら私の心に響いてくること。あの子供の時にですね、あの芝をと言うか草叢で「づばな」取りをした思い出があるのです。皆さんもあると思います。今の子供はあんなことは致しませんですね。「づばな」といってから、白いかやの穂の実る前の、あれです。食べられるのですよね「づばな」といって、たくさんの草の中から、あのづばなだけを選って取るのです。私そんなことを頂かせて貰いながら取りよりましたら楽しゅうなってくるのですね。本当にあの手に一杯そのなるのです。生えている草がなるのです。これが子供の時に「づばな」を一杯取っておる時のような錯覚です、ね。
 ほんにあの私はどういう御用をさせてもらうでもです、どういうようなきつい仕事をさせてもらう時でも、工夫さしてもらわなければいけないと思いますね。それが楽しゅうならせてもらえる。有難うならせてもらえる思いかえがいると思います。その思いかえと言うのがです、やはり生き生きとした心、有難い信心させてもらっておるときでなからんと思いかえが出来んでしょう。どういう難儀に直面いたしましても、思いかえしていけると言うこと、思いがいる。
 教祖の神様がまだ百姓の文治と言われておられた時代に、二人のお子様が疱瘡にかかられた。その時に養生のかいなし神仏に願ったかいもなしにとうとう一人のお子様は亡くなられた。おかげで一人のお子様は助かられた。ね、これだけ一生懸命養生したのに、これだけ神仏にもお願いしたのに、その養生のかいもなく信心のかいもなく死んでしまったという風には一つも感じておられないようでございますね。実感としてほんとに私どもの信心が足りませんでしたから、一人の子供はとうとう亡くなりました。けれども神様あなたのおかげで、仏様貴方方のお守りのおかげで一人の子供は助かりましたと、もう心から御礼を申しておられます。それがその心から御礼申しておるという事が本当に申しておられたという事がその感じられる事はですね、そのお宮の神主さんですかね、を呼んでその御礼のお祭りをしておられることです。そして相当の金額と沢山のお米を御礼にですね、その奉納しておられることです。口だけではない事が分かるですね。
 そういう思いかえが出来るところにです、こうして素晴らしい道が開ける元があったと思います。そういう心で私は、おかげというのは、おかげの道が開けてくるというか、おかげのチャンスを掴んでおいでだったと思うのです。ね、信心さして頂いて、思いかえの名人にならしてもらわなきゃいけません。ほんなこつ、そんな風に考えよるなら、いっちょん腹は立たん。そんな風に思えば成る程、有難かというようにですね。腹を立てたり、情けなかったりするよりも、そういう素晴らしい思いかえをさせて頂きながら私は、おかげを頂いていく。そういう心がおかげを掴んでいくということを感じます。
 この方の道は、喜びで開けた道。喜びでは苦労させんと仰るような、素晴らしい大真理というかね、そういう信心を把握されたのも教祖の神様の、素晴らしい思いかえが良かったからです。そういう思いかえをさして頂かれる元になったのは、限らず生き生きとした信心心、生き生きとした喜びの心というものが、その根本になっておったという事を感じます。
もう本当にあの胸のすく様と言うか、そういう思いかえが出来る、おかげ頂いたらいいですね。
 限りなく美しくならして貰おおと言うような、おかげを頂くために、改まらなければ出来ん。本気で磨かなければ、美しゅうなれません。そういう美しゅうなれる例えばチャンスでも、こちらが良い信心を頂いておりませんと、そういう美しゅうなれるチャンスを頂きましても、それをかえって汚して参ります。
 昨日、久留米の佐田さんが御礼に出で見えました。…日田の方で酒屋をなさっておられました。その時分の売掛代金の残っているのを時々集金にいかれます。あるところに集金に行かれました、そこはもう払いが出来ませんから、いついつまでは払う。月いくらづつ払う。そして保証人まで立てて約束をしてございました。それで月々銀行に入れてあるのがこの頃は入ってない。もう何回も入っていなければならないのに一回しか入っていない。そこで保証人の家に行こうと実は思ったんですけれど、保証人の家の所と名前を聞き忘れていた。そこで直接、貸してあるところの家に行かれたところが、嫁さんが一人で留守番をしておられた。そこで集金、その事を伝えられるともう、顔色を変えてですね、食って掛かる様にしてそんな、うちはこういう難儀な中にもう少しずつでも払っていきおるのに、もう主人が銀行に持っていく時には、私もついて行こうごたる。もう今までになったのは払わんでよかごとふうに言われる。
 けれども信心を頂いています。おかげでそれを、非常に冷静な心で言われるしこ黙って聞いていた。もう本当に貸しとった者が、貰いにきた者が悪かごと言われる。それを聞いてしまってから、佐田さんが言われた。奥さん、けれどもね、貴女がねそげん言われるけれども、私も主人の代理で集金にきているけれども、言うならば貴方のところの主人と私のところの主人と言うなら、男と男のところでこう言う約束が出来て、その約束を履行しなさらん、あんたんところ、実は私は今日は保証人さんのうちに行こうと思ったけれども、本当を言うと保証人さんの名前を忘れた。だから貴方の所に来たのだけれども、しかし良く考えてごらんなさい。まだお宅のご主人は若い。私どもも人のために保証人に立ったりなんかで随分、無理な支払いをしてきた事もあるけれども、そういう時に私の主人は何時も授業料といっておりました。自分の人間を造っていくための授業料。決して、おしみをつけてはならんぞと私の主人が言いよりました。お宅もどぎゃんでしょうか。お宅も主人がいよいよ成長しなさるための授業料と思いなさっては、どうでしょうか。まあだお若いのに、例えば僅かばかりの金の月々銀行に払い込んでいくのに、貴女がついていくほど惜しいという、そげなことを言いよんなさったんじゃとても一生、立ち上がらなさんですばいと言って、つい自分はなんか御理解を説きよる様な、良い気分で話させてもらった。
 そしたら、打って変わってですね、本当に奥さん、よかこと教えて貰いました。もう何べんも払い込まんですみませんでしたけれども今日は直接、現金を持っていってもらいますけん。まあ、少しばっかりではございますけれどもと言って一回の払い込み分だけを、後は私はそげなふうに主人に言うてから、月々怠らんように払い込ませて頂きますからと言われたという。向こうがこう出た時にこちらが日頃の信心にもの言わせてですね、見事な商売をしてきておられます。
 次の家に行かれました。ところが、そこは創価学会だそうです。前に一回集金に行ったところが、もうそこは、とにかく丁度お昼でしたか昼のご祈念がありおった。一心不乱にそのお経文かなんかを唱えてござる。もう絶対、創価学会は拝みだしたら後を振り向かない。誰が来ても返事をしない。拝んでしまうまでは。それはしかし大変な事だと思いますね。私それを聞かしてもらいながら、創価学会が生き生きとしたものを持っているというのは、そういうところだと思います。金光様の信心はそういうわけにはいけません。一度神様に向こうたら、例え後ろから槍先で突かれるような事があっても振り向いてはならない。物音や物声やら聞くようでは神に一心は届かぬと仰るのですから、一心の表現がそういう形で現れる時に、人は笑うかも知れません。非難するかも知れません。それが一心。人から笑われても、神様から笑われてはならんと言うような、生き方を、私はその、よそ事ながら感心だなあと思ったのです。
 ですから前にも一回そういう事があったから、御免なさいと言わずに静かに入っていってから、上がりがまちに腰掛けてから、ご祈念がすむまで待っていた。こんな風で集金に参りましたと。ところがこの頃から主人が亡くなりましたと。お宅に払い込まんならんと思いまして用意しておったのですけれども、お葬式やら何やらで使ってしまいましたから、もう暫らく待って下さい、と言って、盆も近づきおりますから待って下さいとも言えん。初盆のことでございますからお金も要るし、とにかく今まで待って頂いたのですが、もう暫らく待ってくれと言われる。ですから無理も言われんもんですから、そんならこの次に来たときに寄らせて頂きましょうと言って帰った。帰ってそのことを主人にそ話された。
 そしたら、その主人が言われること。それは恵美子、そういう事なら今まで取引願って、いわば引立てて貰ってきたお店だから今、困っておんなさるのなら、その仏様にお供えさせてもらってくれば良かったね。後は入りませんと言ってくれば良かったねとこう言われた。横からおばあちゃんが聞きよんなさって、ほんなこて恵美子さん、本当にそれゃ、仏様にお供えせんねと言うわっしゃった。もう本当に私は良い主人、良い親を持って幸せと思った。本当に主人に二度惚れする思いでございました。実は私もです、心の中でそういうことを考えて帰ってきてた。もう貴方もお母さんもそう言うて下さるのなら、すぐ電話しましょうといって電話した。
 その事を申しましたところが、電話口で向こうで嗚咽しよんなさった、泣きよんなさる。そげな事をしてもらったら又困ります。、そういうことは出来ません。いえ主人もそう申しますから、あれはそのまま私どもがお供えさせて頂きますけんと電話を切ったというわけです。
胸のすく様なお話ですね。いや二つとも、どっちの話でも。お商売しとれば、どこもここも、やってこんとならんと言うことではありませんよ。先の所を見て下さい。もう本当に、日頃の信心にもの言わせてですたい。向こうがカーットきてから、こちらもカーットきてからと言うのではなくです、諄々として道を説いておられる。そして相手にそういう元気な心を与えて来ておられる。次の事には、いよいよ日頃、一家中で本気で美しくなりましょうやと言う信心をしてござる事が分かる。皆さんの心の中に、今日私が言う素晴らしい思いかえと言うものが出来たから言えたんです。これが反対の場合だったらどうだろうか、例えば、そういう思いかえをされたのに違いありません。
 始めの場合の集金のばあいでもそうでしょう。そういう例えば、後でそれこそ元気な心で有難く払い込ませる、チャンスを掴んでおられるでょうが。もうこれから来ても払いません。これから本当に月々払わせます。本に貴方が言われるように、私の主人はまだ若い。立派に人間が出来ていくための授業料と思えばよかですねと言われたという話なのです。そういう風にして信心がそういう生活の上に現われていかなければ駄目なのです。又、そういう風にしておかげのチャンスというものを掴んでいかなければ駄目なのです。そういう風にして思いかえと言うものをしていかなければならんと思うのです。如何に佐田さん一家が今、生き生きとした心で信心をしているかという事が伺われます。生き生きとした信心をさして頂いていなければ、それが出来んのです。横から、例えば、おばあちゃんが、それはお供えしてくれば良かったね。そぎゃん事をすることがいるね。向こうが払うと言うてござるのだから、一時待ってから貰わねばばからしかねと言ってしまえばおしまいでしたね。主人の方も、母親の方も、恵美子さんそげんせんねというてそこの所にです、私は次のおかげの頂ける道が必ず開けてくると思うのです。
 お互い生き生きとした信心をさせて頂いて、思いかえの名人、ここをどう思い変えていくのが有難いのか。同じ草取りをするでも、子供の時の「づばな」を取るような気持ち、例えばさしてもらったら楽しゅうなる。そんな、遊び半分のことじゃなかけんですね。本当にお百姓さん方のされるのは生半端なもんじゃないですけんね、けれどもです、素野津花鳥と思わんでもです、ね、取っていけばきれいになっていく喜びはあるはずです。この・・?お野菜の生き生きとして成長するかわからない喜びはあるはずなんです。そういう思いかえをいよいよ工夫さして頂いて、おかげを頂いてもらいたいと思います。どうぞ。